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仏教に学ぶ

法話 若院日記

仏教に学ぶ

法話 若院日記

image昨年から三河別院での連続研修会(連研)のスタッフとして参加しています。この研修会ではお勤めや作法の時間や基礎講座(今回は正信偈の講座です)などのほかに、話し合い法座の時間があります。
従来、お寺の法座はお坊さんのお話を一方的に聞くスタイルでした。それよりももう一歩主体的に仏教に関わることを考え、車座になってそれぞれがテーマにそって思いを述べるのが話し合い法座です。
毎回様々なテーマがあります。「私にとって幸せとは?」といったテーマから「お浄土とは何ですか?」というような信仰におけるもの、そして差別や戦争等の社会問題に対するものもあります。先月私が担当することになったのが「わたしは差別をしたことがありません。なぜ部落差別は無くならないのでしょうか」というテーマでした。個別のテーマに関しては、実際参加していただくことが一番よいかと思います。さまざまなものの見方によって、ちがった捉え方をするネット上で正確に伝えきれない部分もあろうかと思うからです。
とはいえお寺の研修なのになぜこんなテーマが関わってくるのかと思われる方もいるかもしれません。江戸時代以降、生きている間はお殿様、天皇陛下、政府(もしくは世間のルール)に従い、仏教は死んでからの問題になってしまいました。けれども本来仏教も宗教ですから、生き方そのものに響いてくるものであるはずです。
ここをもって先日「仏教を学ぶ」ことと「仏教に学ぶ」ことのちがいをお話しました。「仏教を学ぶ」のであれば、歴史やテクニカルタームを覚えることや、いかに客観的に経典を読めるかということにウエイトが置かれるでしょう。けれども「仏教に学ぶ」となった場合は、「私」を通した主観的な部分が軸になってきます。念仏者としての私の生き方を通して見えてくるものに主眼が置かれるのです。そのため毎日生活しているその一コマ一コマに響いてくるものともいえます。
「仏教に学ぶ」という視点にたてば、社会の情勢や問題に対しても仏教者として、念仏者として向き合うことにもなるでしょう。
これに関して、仏教はこう考えるという明確な答えが出せない問題もあろうかと思います。けれども重要なことは問い続ける姿勢であろうかと思われます。聖典のはじめに出てまいります浄土真宗の生活信条では「み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます」とあります。社会を構成しているのは私たち自身ですから、「このままの自分(社会)でいいや」とならないような心がけも大切でしょう。そうした姿勢は念仏者のあり方に通じていくものではないかと感じます。