無宗教ではなくて多宗教では?
クリスマスのあとには、除夜の鐘があり、初詣にも行く…お墓参りも。日本人は様々な宗教的な行為をしています。浄土真宗的にいえば、南無阿弥陀仏一つで救われるのですが、こうした日本の実情を無視するわけにもいきません。
けれどもすこし懸念があります。そうした生活をしている方の多くが「わたしは無宗教です」と言われることです。けれども本当にそうでしょうか。無宗教を名乗る多くの方は「宗教=〇〇教に入信」と思っている方がほとんどです。一つに定まっていないから無宗教なのだと。しかし世界を見渡してみても日本人はかなり宗教的な部分が多いです。うちには仏壇も神棚もないよという人もいるでしょうが、それだけではないからです。日本人はあえて宗教と呼ばないくらい根っこのほうから宗教とリンクしています。価値観と言ってもいいくらいのところから。
たとえば先祖に対して敬いのこころを持つのは、儒教によるところが大きいです。地域のなかでは神道による共同体の維持が図られてきました。無常感などは仏教の考えがベースになっています。近年、医学はキリスト教(とくにプロテスタント)由来ですが、けして諦めないというプロテスタントの哲学が旧来の日本人の価値観(わたしの言い方では宗教観)と合わずに悩む方もいます。
宗教を訛りに例えられた方がいました。なるほど納得です。ことばを話しているとそれぞれに訛りが出てきます。人間が生活を営むにあたって、生活に密着するかたちで宗教性というものが出てきてしまいます。
問題は多くの方がそれに無自覚なことだと思います。中部地方、三河の地に住んでいると感じるのは、さまざまなイントネーションや訛りのミクスチャーです。大阪っぽいところもあれば、東京ナイズされたところもある。(そもそも東京弁は徳川生誕の三河発信です)ただ無自覚なままに「自分の話しているのが標準語ですよ」というのはどうなんでしょうということです。ここのイントネーションはは関西由来なのか、とか自覚をもったうえでお付き合いするほうがいいのではないかということです。
なぜならグローバル化の進む今日にあって、海外の方の多くは自覚あるなかでお付き合いされています。本当はさまざまな訛りを抱えているにもかかわらず、それに無自覚でいることはビハインドになりかねません。今後はより宗教に対する意識は必要になってくるだろうと思います。
日本人は宗教というと心の問題と捉えがちですが、そうではありません。むしろ生活様式と融合しているところが多いです。この辺りは別の機会にお話しようと思います。
あまりこうしたことは語られないかもしれませんが、今後ますます重要になるかと思い、すこし触れてみたことです。