「お寺も社会の一員ですから」3年以上震災支援活動を続けるなかで、様々な場面でお話ししてきました。うんうんと頷いてくれる方も多いです。政教分離という一線はありますが、お寺側もそれを恐れるあまり動けなかったり、実際動いていても社会認知度が低いことがほとんどです。私の知っているお寺さんでも、福祉施設の訪問やお供え物を贈ったり、というお寺もあります。
お寺は社会貢献できる潜在能力はあるし、もともとそういう機能があったはずです。以前大阪の應転院さんで、寺業再興という講座が開かれたときに買ってきた本が手つかずのままでした。思い出して読んでみると、もっと早く読んでおけばよかったと思うような内容でした。
この本には宗教の社会貢献、宗教ボランティア、社会参加型の仏教について触れられています。タイトルにもあるように、利他主義というところに着目しているのがポイントです。未曾有の大震災を経験し、私たちのなかの「思いやり」の意識が覚醒したのではないか。それを今後に生かして行くにはといったことがテーマであると思います。
注目したのは、ソーシャルキャピタルとしての宗教ということです。全くなじみのない言葉だという方も多いと思います。
社会のさまざまな組織や集団の基盤にある信頼、規範、人と人との互酬性が強く、しっかりしているところは、組織、集団として強い。人々の支えあい行為が活発化し、社会のさまざまな問題も改善される。そのような考え方に異論はないだろう。組織や集団にあるこの「信頼」、「規範」、「人と人との互酬性」がソーシャルキャピタル(Social Capital:社会関係資本)と言われるものである。
欧米ではソーシャルキャピタルとしての宗教に対する関心が高い。宗教が、人と人とのつながりを作り出し、コミュニティの基盤となる可能性がある。そして、そこに宗教的利他主義との関連が論じられる。
集団の基盤に信頼感があると思いやりや支え合いの心が強くなるということでしょうか。同じものがたりを生きるといってもいいかもしれません。この100年ほどでいえば、お国のためであったり、いい学校、いい会社に入ればいい人生だったり、価値観共有の礎のようなものかもしれません。ところが現代では、その根本の信頼感が揺らいでいます。会社も不安定、家族のばらばら感、共同体としての地域の脆弱化といったことが思いつきます。もちろん宗教も力を失ってきました。
しかし震災以降、支援活動を続けてきたなかで感じたことがあります。ボランティアというのは、自己実現や充実感といったところだけではありません。抱え込むものが大きすぎて心労が重なったり、ボランティアから帰ったときに周りに理解されず孤立感を感じたり、ボランティア保険などの制度的なものではない、精神的なサポートも重要です。
この点で宗教ボランティアはその力を発揮します。あまり意識したことはなかったのですが、興味深い指摘がありました。
宗教ボランティア活動においては、宗教が与える世界観と信仰というバックボーンがボランティア活動における個々のボランティアの精神的支えとなっている。さらには、世界観を信仰を共有するボランティア同士のつながりも重要な支えとなる。
振り返ってみると、思い当たる節があるところです。震災支援ネットワーク東海の活動においても、本堂でさまざまな物資やお米の仕分けをしてきましたが、単にスペース的に広い場所というだけではなかったかもしれません。
多くの人が門をくぐるときに頭を下げ、本堂に上がってからご本尊の前で手を合わせます。そうした空気感を共有しながら、実務に当たるところも含めて、根本の部分での信頼感というのはあるのかなと感じます。今まで考えもしませんでしたが、そうしたところもあるのかなと感じました。
私は、社会の抱える問題をお寺も社会の一員として考え、できるだけのことは貢献させていただくことが大切だと思っています。福島県からの子供たちの保養プロジェクトや、アースデイいわきでのつながりでもお寺に、お坊さんにできることは思った以上に広がっていて、そうした方々は期待してくれる部分も多いことに気付かされました。こうした社会貢献的なことは昔はもっとあったはずなのに、お寺から失われつつあったと思います。
今後もニースとの調子をはかりながら、私たちにできることは何かを考え、お寺としても個人としてもアクションしていきたいと思います。