今日は朝から御引上報恩講で、岡崎市北部の町で参り合いでした。明願寺では今でも多く地域で参り合いがあります。だいたい秋の収穫時期が過ぎて、冬に向かう時期が多いです。御引上についてはこちら
4、5軒という地域もあれば、住職と若院2人で手分けするところもあります。今日は6軒のお宅を順に回って行きました。
最初のお家に伺うとすでにそれぞれのお家の方が待っておられます。全員で順々にみんなの家を巡ります。お勤めは正信偈和讃六首引で繰りよみはありません。順々にお参りしながら、各お家のおばあちゃんの話やひ孫ちゃんが大きくなったこと、息子さんが家を建てている最中などお話も進みます。お仏間は各家の奥の方にあるので、普段顔を合わせているご近所さんでも入る機会はこの時くらいです。
親鸞さまのご命日のお勤めですから、仏教的な意義はもちろんのことながら、こうしたところのつながりも大切です。また1年に一度みんなの目が入るので、お仏壇のお飾りやお磨き、お仏間のお掃除などメンテナンスの意味でも大切なことです。代替わりされた方も、各お家を回るなかで気づかれることもあるでしょう。
自分たちの世代まではお参りできるけれども、次の世代までは続けられるか心配という声も聞かれます。これを言われた方の次の世代=私と同年代なのですが。個人的に思うことは、頭ごなしに昔から続けてきたからやらされる義務感というなかでは、ときとして負の面を見て敬遠される方もいることともいます。けれども本来の意義というところにとどまらず、各個人がそれぞれの意味付けをしていくなかで自分にとって意味ある場所となることもあろうと思います。私たちの年代でも、自分にとっての意味付けができれば、その場所は意味あるものになります。
もちろん私たち僧侶は本来の意味を伝えていくことは肝心ですが、それぞれの方の意味付けに対しても柔らかい対応をしたいと思います。またそのなかで何が必要とされているのかをそれぞれの人が考えることも大切かなと思ったことでした。